2008年7月23日水曜日

マーラー詣で(3)

7月19日

昨日まではウィーンの友だちが案内してくれて全てスムーズにいったのですが、今日からは二人で切り抜けなくてはなりません。そこで分かったのが、私たちは二人とも凄いのんびり屋でぼっとしていて方向音痴だということでした(Sさん、ごめんなさい)。これからは野次さん北さん道中です。

朝から素晴らしい天気でした。今日は1日マーラーがよく通っていた妻のアルマの実家がある北の郊外のほうに行くことにしました。ベートーベンが遺書を書いたハイリゲンシュタットの周辺です。昨日72時間通用という切符が買ってあったので、動き回るのに実に便利です。まずお墓のあるグリンツィングにたどり着きました。ここの教会は1911年にマーラーのお葬式が行われたところです。16-7世紀の建物が残っている小さい村です。 


教会ではちょうど結婚式が終わったところでした。

そこから坂道を登っていくと墓地に行き着きます。
墓地までの坂道。遠くにワイン畑が見え、本当に郊外に来た感じです。

墓地の入り口には案内図があって、ABC順に名前が書いてあり、お墓の番号がついています。
マーラーの墓も他の市民と全く同じ扱いで、アルマと墓地を1/2ずつ分けていることが分かりました。生前はマーラーを裏切り、その生涯を書いた本の中で「自分ではいっぱしの菜食主義者気取りでいる、この天才という肉食獣たちよ!」とまで呼んでいて、マーラー死後2回も再婚した彼女がここに葬られていたのは実に意外でした。
私がお墓の番号を勘違いしていたため、1時間以上もあちこち探し回りました。真向かいにまだ墓石も立っていない場所でおばあさんが一人座っていて、そこには木の十字架が立ててありました。おばあさんの途方にくれたような感じが痛々しくて、目をそむけるように通り抜けたところがマーラーのお墓だったのです。1時間も他を探していたのでおばあさんの邪魔をしないですんだから、まあいいか、と二人で納得しました。私たちはなんといっても観光客ですから。おばあさんが帰ってから良く見たら十字架に若い男の人の写真が張ってありました。

有名な作曲家が眠っているのに、どこにもそのような表示はありませんでした。日本なら絶対に「マーラーの墓石はこちら」なんて標識があちこちに立っているんじゃないかなあ、と話し合いました。
 


とにかくまあ、お墓までたどり着いたのですが、そこでまたびっくり。アルマの名前がどこにもないのです。この墓石はヨセフ・ホフマンがデザインしたもので、モニュメントの性格が強く、他の人の名前を彫る余地が1ミリもないのです。アルマはそれでもやっぱり幸せなのかなあ、と思いました。よくみると墓石の右下に小さく、ウィーン市保有と書いてありました。お花をあげながら、これもウィーン市が掃除してくれるのかな、なんて考えました。
坂を下りて教会まで戻り、真向かいの酒場でビールを一杯。こういうルネサンスの集落には教会のすぐ近くに必ず酒場があるのが面白いと思います。教会帰りに一杯やってたのでしょうか。
さて、それからマーラーの散歩道だったといわれるカーレンベルクまでバスに乗りました。バスは山道をガタガタ音を立てながら上っていきます。かなりきつい傾斜で道は舗装されていますがいろは坂のように折り曲がっています。散歩道というにはかなりきついし、遠いのです。マーラーはずいぶん体が丈夫だったんじゃないかと思いました。 山の頂上には新しいホテルと展望台、お土産屋が建っていました。もちろんマーラーの時代には頂上には何もなかったと思います。天気も良く素晴らしい眺めでした。近くにはブドウ畑、遠くにウィーンが見えます。
その後、ハイリゲンシュタットまで降りて、アルマの実家、モルの家を見に行くことにしました。渡辺裕の「マーラーと世紀末ウィーン」という本によるとそれはハイリゲンシュタット公園の一角に当たるホーエ・ヴァルテというところにある、と書かれています。地図で見ると確かにホーエ・ヴァルテという名前の道がある。結構長くて1km近くある。番地が分からないので、そこを端から端まで探せば見つかると思い、探しました。渡辺さんの本に写真が載っているので絶対見過ごさないと思ったのに、ないのです。くたくたに疲れて、仕方なくホテルに戻りました。悔しくて仕方ない。後で分かったのですが、モルの家はホーエ・ヴァルテから少し入った別の通りにあったのです。

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