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2009年4月8日水曜日

イースターです。

昨日のお客さんにいただいた水仙。
ここでは「イースターのゆり」という名前がついています。
花がちょっとほころびて、かわいらしい。

今朝見たら、もうこんなに咲いていました。
イースターは来週です。それまでに咲き終わってしまうかも。
ここでは、イースターといったら鶏です。
だから花屋さんにはひよこを連想させる黄色の花がいっぱい。
うちのイースターの飾りも出してみました。

2009年4月6日月曜日

猫のグルッセ(4)

日本から帰って以来、グルッセはなんとなく私の廻りに張り付いています。
 テレビを見ようと思うと、私が座りたいイスに。

仕事していると、お隣のイスに。

寝ようと思うと、ベッドはすでに占領されている。
ベタベタするわけではないけど、なんとなくいて、ちょっと邪魔。

2009年4月4日土曜日

春が来た

Fr.o.m. idag blir det igen bara på japanska. Sven har just nu inte tid att hjälpa mig med svenskan.

今日からしばらく、日本語だけになります。スヴェンは忙しくなって、スウェーデン語を助ける暇がないそうです。
久しぶりに街に出ました。街中の公園はクロッカスが花盛り。春です!

みんなお日様を満喫しています。

そしてグルッセは。砂の上でゴロンゴロン。








「気持ちいいなあ。
ああ、こりゃこりゃ。」

2009年2月5日木曜日

ショーウィンドー/Skivskyltningshylla

2日ほど前に、友だちのうちに遊びに行きました。
ひ孫までいるご夫婦です。奥さんは料理上手。ご主人は古楽器を作ります。
フィーデル、ハープ、リコーダー、コルネット、なんでも器用に作ります。

För två dagar sedan var vi hemma hos gamla vänner.
Paret visade oss bilder på sina barnbarnsbarn. Frun lagar fantastisk mat och mannen har som hobby att bygga instrument för medeltids- och renässansmusik: fiddla, harpa, blockflöjt, sinka m.m.









でも今日の注文は楽器じゃありません。
わが社製作のCDが全部飾れる棚。

Men den här gången hade han snickrat någonting helt annat. Jag fick något som jag önskat sedan länge, en utställningsram för de CD-skivor som min firma producerat under åren.

こんなに素敵にできました。まだ5枚以上飾れます。
Så här fint blev det! Jag har plats för fem skivor till.

2009年1月25日日曜日

新年会/Nyårsparty


今日は友だち20人を集めての新年会でした。本当は市内の友だちのところでするはずだったのですが、お子さんと奥さんがインフルエンザ。そこで家にお鉢が廻ってきました。持ち寄りパーティーですごいご馳走でした。写真を撮るつもりだったのが、お客さんにかまけていてすっかり忘れてしまいました。残念!
友だちの一人(写真左)がちょうど今日誕生日だったので、手作りケーキ(写真右の友だち作)です。すごく凝ったおいしいケーキでした。とっても楽しかったことは、この二人の顔を見ても分かるでしょう?
カメラの後ろにあと18人が見ているのです。

Idag hade vi ett nyårsparty hos oss. Vi skulle ha samlats hos en annan familj, men barn och mot i huset fick influensa. Därför kom partyt hastigt och lustigt att flyttas hem till oss. Det blev ett knytkalas med 20 goda vänner. Fantastisk bra mat! Jag skulle ha tagit bilder, men jag hade så mycket att göra i början, så jag glömde det totalt :-(
En i sällskapet råkade ha födelsedag, så en annan som visste om det, hade gjort den här fina tårtan (mums). Ni kan väl se hur roliga och lyckliga vi var, när ni ser födelsdagsbarnet och tårtbagerskan. Bakom kameran finns 18 leende människor.

2009年1月18日日曜日

Stor bombning/大空襲

イスラエルによる3週間のガザ攻撃で、1300人以上の方が亡くなったということです。それも多くの子どもや女性が犠牲者です。本当に痛ましいことです。イスラエル側にも、ハマス側にも戦争責任を追及すべき、という声が上がっています。このような行為は何かの形ではっきりさせなければならないと思います。今、やっと休戦状態になったところですが、これから被害の大きさが報道されていくことでしょう。ガザの人々に同情を禁じえません。

I treveckorskriget i Gaza dog över 1300 personer, bland dem många barn och kvinnor, ett katastrofalt faktum. Det påpekas från vissa håll att både Israels och Hamas agerande borde fördömas i en internationell folkdomstol. Nu har man äntligen åtminstone kommit fram till en vapenvila. När journalister så småningom släpps in i Gaza, kan vi förvänta oss att ytterligare många hemska detaljer kommer i dagen. Jag lider med Gazaborna.

この戦争による痛ましい破壊力を聞くにつけ、思ったのが、東京大空襲の物凄さです。

Den tragiska förstörelsen i Gaza leder mina tankar till den stora utbombningen av Tokyo strax före slutet av andra världskriget.
焼け野原と化した東京中心地
Tokyos centrum hade totalt utraderats.
この写真は説明を付けたくない。
På nära håll såg det i princip ut så här. Jag har faktiskt talat med folk som överlevt liggande under ett mer eller mindre tjockt lager av dödsbrända människokroppar.

終戦間際、1945年3月10日に東京はアメリカ軍の無差別絨毯爆撃にあいました。午前零時にはじまり約2時間半、東京湾周辺40k㎡が焼け野原となりました。それも先ず周囲を爆撃し、人々が円から逃げられないようにして、その後100万発(2000トン)の焼夷弾を浴びせかけ、逃げ惑う市民は低空飛行で機銃掃射されたといいます。たった2時間半で、死者10万人(比較しようとは思わないけど、ガザの死者の80倍)が黒焦げとなったのです。広島長崎と共に史上まれに見る市民に対する攻撃と言われています。勿論、ドレスデンの空爆も忘れてはいけませんが。
このとき使われたナパーム弾とクラスター爆弾は日本の家屋を襲撃するために1944年に開発されたのだそうです。

Den 10 mars 1945, fem månader före krigsslutet, lade USA ut bombmattor över Tokyo i ett komplett förintelsesystem. Aktionen inleddes strax efter midnatt och varade två och en halv timme. 40 kvadratkilometer runt omkring Tokyo-bukten jämnades med marken. Sättet att attackera var utstuderat grymt. Först bombade man en ring runt stadskärnan för att ingen skulle kunna fly därifrån, och sedan totalbombades det "inhägnade" området. 1 miljon napalmbomber (2000 ton) släpptes över Tokyo vid detta tillfället. Men inte nog med det. De som sprang och försökte fly jagades och dödades med kulspruteld från lågtflygande jaktplan (samma taktik som tidigare tillämpats i Dresden). På bara ett par timmar hade 100.000 människor dödats (faktiskt åttio gånger fler än nu i Gaza). Tillsammans med de mer kända atombombningarna av Hiroshima och Nagasaki hör detta till världhistoriens verkliga "rekord" i snabbt massdödande. Hur många europeer känner till att Tokyo utsattes för en minst lika omfattande bombattack som Dresden året före?
Klusterbomben och napalmbomben uppfanns 1944 för att ge just japanska städer (oftast byggda med hus av trä och papper) största möjliga skador.

これでも足りなくて、同年5月24日と25日に両日とも250機が焼夷弾を打ち込み、それをもって東京は爆撃リストから除外されました。
日本に対する空襲は1942年から始まり、1944年ごろには激しさを増していました。戦死者数は、いまだにはっきり分かっていませんが、大体56万人ぐらい(沖縄諸島を除く)と言われています。
いくら日本が真珠湾攻撃をしたからといって、このアメリカの行為はどう見てもジェノサイド(集団殺戮)だと思うのですが、日本はサンフランシスコ講和条約ですべての賠償を放棄したため、連合軍側の責任は追及されなくなったそうです。(そんなことがイスラエルとガザで起こったら、どうでしょうか)

Amerikanerna nöjde sig inte med detta. 24-25 maj återkom de med 250 flygplan och utsatte Tokyo för en "kompletterande" brandbombning, varefter de ansåg sig kunna stryka Tokyo från bombmålslistan.
Flygbombandet av Japan hade börjat redan 1942 och intensifierats från och med 1944. Man har inte lyckats precisera antalet bomboffer men gissar på ca 560.000 totalt i hela Japan (exklusive Okinawa som är en hemsk historia för sig).
Det är visserligen sant att Japan hade överraskat USA med attacken på Pearl Harbor, men man kan verkligen ifrågasätta proportionaliteten i den amerikanska vedergällningen, som kollektivt drabbade det civila japanska samhället (ett veritabelt folkmord). I fredsavtalet i San Francisco avstod Japan från all ersättning för krigsskador, och de allierade kom formellt att slippa ansvaret. (Skall månne motsvarande ske med Israel och Gaza?)

今回、これを書くに当たってインターネットを見ていたら、下記のような詳細がありました。
この攻撃を指揮したのはカーチス・ルメイ将軍で、かれは非戦闘員に対する攻撃という非難に対して「日本は当時、兵器を作るのに、市民全員が参加していた。どんな小さな家庭でも、ボルトやナットの整理をしたりしていたのだから、これは民間人ではない」ということでした。
もっと凄いのは1964年にこの人は日本政府から勲一等の勲章を貰っているのです。「日本の航空自衛隊の育成に協力した」ということで。時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を貰った佐藤栄作でした(このノーベル賞のニュースを聞いた時、一瞬、まさか!ノルウェーのエープリルフールって12月にあるの?と思ったことを思い出します)。

När jag samlade fakta på nätet för att utforma denna blogg, hittade jag ännu en bisarr uppgift.
Generalen som verkställde bombandet av Japan, hette Curtis E Le Mey. Mot kritiken som han fick efteråt, försvarade han sig med att alla Tokyobor varit verksamma i vapentillverkning. Små familjer skulle enligt honom ha suttit i sina hus och åtminstone sorterat muttrar och skruvar, så de kunde alltså inte räknas som helt civila medborgare.
Ännu smärtsammare att veta är att japanska staten efter kriget tillerkände samme general den högsta orden "för utmärkt samarbete i bildandet av en japansk flygstyrka för självförsvar".
Staten representerades därvid av premiärministern, Eisaku Sato, samme premiärminister som sedermera, helt oförtjänt, erhöll Nobels fredspris 1974. (När jag i radion hörde denna nyhet, slogs jag för ett ögonblick av tanken att man i Norge tydligen brukade idka någon sorts aprilskämt i december!)

人間は歴史から学ぶと言うことが出来ない生き物なんでしょうか。
ヨーロッパ(勿論アメリカも)ではほとんど知られていないことなので、あえて書きました。

Varför måste mänskligheten ha så svårt att ta lärdom av historien?
Jag har under mina många år i Europa hittills knappt träffat någon som känner till Tokyo-bombardemanget och därför kändes det angeläget att äntligen få berätta om detta.

2008年12月9日火曜日

超・超整理法

15年も前に日本から帰るときに空港で買った本に野口悠紀雄の「超整理法」というのがあります。

後で聞くとミリオンセラーになったそうですが、私もこういうHow-to-物でこれ程役に立った本はありませんでした。ファイルの仕方の本です。本来だらしない性格の私は今まで何度もちゃんとファイルしようと頑張ってもいつも駄目になり、諦めていたのです。飛行機の中で読み始めて、凄く感心。帰ってからさっそく実行しました。今でも感謝している方法です。要は、「あらゆる分類を廃止する」という発想です。だらしなくて、めんどくさがり屋の私には打って付けでした。

どうするかというと、A4が入る封筒をいっぱい集める。その中に本来はファイルするべきものを、紙一枚でも、少々分厚くても何でも一つずつまとめて、手当たり次第放り込み、封筒の表(右側の端)に内容を書いておく。それを本棚に並べるだけ。次に新しいものを並べるときは、一番左側に立てかけていく。封筒で、使ったものも、終わったら左端に並べる。しばらくたつと、一番最近使ったものが左端、全然使わないものが右端に自然に整理されていく。1年に1度ぐらい右端の封筒の中で、全然使わないものは捨てるか別の形で整理する(私はほとんど整理していません)。この本箱の一角は、多い人でも1メートル半ぐらいだそうです(私の場合は半メートルぐらいです)。内容は何でも。来週の会議に使う資料から、学校からのお知らせ、書きかけの原稿、来週使う授業の資料、もっと個人的なものまであります。

あちこち探すより、1メートルぐらいだったら、封筒に書いてある表題(右端が前になっている)をめくっていけば5分もかからず、全部見られます。それに大体の時間的な経過は覚えているから、もっと短い時間で探せます。

見た目はゴチャゴチャしているから、きれい好きな人だったら、新しい封筒で一律にすればいいでしょう。でも、あの青い封筒などと覚えていることも多いから、写真のようにグチャグチャしているほうが探しやすいかも。

これは本当に役に立ちました。特に私は一時、いろんな仕事にかかわっていました。大学の日本語科、音大でエルゴノミー、ダンス、自分の会社の仕事(一時はお店も持っていた)、趣味その他。1週間がいろんな種類の活動に中断されることが多かったです。だから、「整理するな。立て掛けろ」は本当に素晴らしい助言でした。整理するのが苦痛の人はぜひ試してください。

先週、アマゾンからのメール広告でこの人の新しい本が出た、といってきました。「超・超整理法」といいます。

最近、本を買うとき、時々アマゾンを使います(送料のほうが高くなったりするから悲しいですけど)。先ず、カスタマー・レビューというのがあって、この本は27人が感想を書いていました。

こんな分かりきったことで300ページもよく書けるものだ、というのから、最初の3章までは良かった、というのや、とても役に立った、考え方を習ったというのまで、いろいろでした。

要約すると、Gメールの活用法です。今度は「整理するな。検索しろ」
Gメールは6ギガバイトの容量を無料で使えるし、Googleの検索エンジンを活用しているから、メールの中の一言でも思い出せれば、検索できる。これを100%利用すれば、ほとんどデジタル・オフィスができてしまう。というような内容でした。私もこの2-3年、Gメールを使っているので、前の本ほどは感激しなかった。必要な書類を添付して自分宛に送っておいて、仕事場や旅行先のホテルなどでメールを開け、仕事を続ける、などはやっていました。でもここまで徹底的に、ファイルの代わりにメールを使うことは考えなかったです。

日本ではGメールはあまり使われていないようなので、最初の1-3章までが良かった人が結構いるようです。私のとって面白かったのは、どちらかというと最後のほうでした。野口さんは知識獲得のしかたの変化ということを指摘しています。検索ということが今日のように簡単にいかなかった時代(といってもほんの10-15年前なのですが)には、知識を持っていること自身が知識人として大切な要素だった。これからは多分全く違った知識の内容を問われるようになるだろう。例えば、学校で学生達の論文の書き方が問題となっている。インターネットで見つけた回答を繋ぎ合わせて、コンピュータで張り合わせ、レポートを書くことが問題となっているが、それは、古い形の知識の有無を問うから起こるので、質問の出し方の問題、教師側の問題だ。といっています。

そこで思い出したのがスヴェンの問題の出し方です。音楽史を受け持っていたとき、前もって学生にA41枚にぎっしりと作曲家の名前や音楽用語をABC順に書いたものを渡して、その紙は試験の時持って来てよい。でも問題の出し方は、文章で答えるようなもので、リストの語彙を正しく使っていると点になるように考えてありました。

将来の音楽の先生はバッハの年月日とか何を作曲したか、などはネットで調べればすぐ分かる。それよりABC順に並んでいる言葉から自分で選んで、一つのまとまった考えにして書く(話す)ことのほうが必要だから、といっていました。

最後に、この本の著者は、日本では固定的な考え方でファイルを作るほうが未だに高く買われているが、このようなことでは知の産業革命は起こり得ない。1993年に「超整理法」を出版した時、著者の昔の同僚(当時の大蔵省)は「書類の整理の必要など一切ない。会議が終わったら、部下に書類一式を渡し、次に必要なら『オイ、あの書類』といえば持ってくるから」と言っていた。しかしこの部下というのは、きっと東大出の秀才なのでしょうね。そういう若い人たちをそんな風に使うのではたしかに希望がないですね。若者のほうが今のシステムをよく知っているのだから。

ただ、「日本の企業の価値はグーグルの百分の一」といって、日米企業の一人当たり時価総額としてグーグル、マイクロソフト、アップルとトヨタ、ソニー、日立製作所を比べているけれど、それでは比較にならないと思いました。本当なら、トヨタをGMやフォードと比較するべきじゃないでしょうか。多分、そうしたらトヨタが勝つと思うんだけど。

まあ、そんな本を読みました。

2008年12月3日水曜日

信じられない!

また文春の記事です。

11月号に「新・官僚亡国論ーー陸軍と霞ヶ関エリートの失敗」というのがありました。この前の「東京裁判」の続きみたいな記事です。著者は保坂正康という人で、「東京裁判」の座談会にも参加していました。最近の日本の官僚が起こしている一連のスキャンダル(年金記録漏れ不祥事、後期高齢者医療制度、事故米、防衛庁高官の収賄事件など)が昭和前期(終戦に至るまで)の軍部官僚の姿勢と非常に似たところがあると感じて、3人のその道の専門家(高橋洋一・元内閣参事官、佐藤優・起訴休職外務事務官、岩瀬達哉・年金業務社会保険庁監視等委員会委員)に話を聞いてまとめたものです。お役人はどこでも現実離れしているらしいけど、これはひどい。日本、大丈夫?という感じでした。

一番すごい発言、と思ったのは、五千万人の年金記録漏れが社会問題になっている時に、ある社保庁の官僚曰く「記録問題はいずれ片付くのだから、ガタガタ騒ぐことじゃないよ」と言うので、どういうことか訪ねると、「だって人は死ぬじゃないの」。信じられない!この人まだ社保庁で仕事してるみたいです。

で、思ったのは、こんな発言をスウェーデンでお役人がしたら、どんな結果になるか、です。先ずジャーナリストが黙っていないでしょう。テレビ、ラジオ、新聞で本人も社保庁も徹底的に叩かれると思いますが。スウェーデンも随分甘っちょろいところあるけど、官僚がここまで現実離れしているでしょうか。

そして当時の大本営の発表が戦争が進むに連れて次のようになった、これは今の官僚にもいえること だと言っています。

1.勝っている時は事実を伝える。
2.不利になると事実の表現をゆがめる。
3.事実と異なる表現になる。
4.全くの虚偽の情報を伝える。
5.嘘をつく。
6.沈黙する。

うーん、恐いですね。仕事なんかで、いよいよやばい、となったら普通の人でもやるかもしれないけど、このチャートに従って、最後までジタバタする人は普通は破綻する。でも軍人や官僚は権力を握っているから破綻しないところが恐ろしいと思いました。


エリートというのはいつも自分は正しいという発想があるから、自分の行為に責任を感じない。最近一部解禁になった東京裁判のファイルで見つけられた東条英機の日記風感想文の中で「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だにせざりしところ」こんなやつ等のために自分は戦争指導にあたっていたのである、的なことが書いてあるという。
この御前会議で会議では天皇が最終決断を下したはずですよね。

似たようなことは今でも行われているそうです。上記の年金記録漏れが発覚した時に当時の安部首相は精査するよう指示を出したにもかかわらず、何もやらなかった。総理の言うことを聞いても将来(何年か先)のメリットにはならないからだそうです。
そういった話が例を挙げて、一杯出てくる。くらーい気持ちになりました。

最後に著者は、三氏との対話を終えて、戦後、私たちは官僚について大いなる錯覚をしていたのではないか、と思い至った、と書いています。つまり官僚は「国民に奉仕すべきだ」とか「常に国益を第一に考えるべきだ」とか「無謬であるべきだ」というような「こうあるべきだ」観念で彼等の性格を変えようとしても効果は上がらない。むしろ官僚は「間違える」もの、「個人の利益を追求する」ものなのだという前提に立って、その無能力や無責任をひとつひとつ突きつけていくことだ。それによって官僚機関に国民の利益となる政策を実施させる仕組みを、改めて作り上げなければならない。と結論を出しています。

確かにビジネスの世界ではそんなこと常識なのに、政治家や官僚は「国民のためにあるもの」と思って気を許してしまうのですね。本当はいつも気を抜かずに見張っていなければならないという事でしょうか。

2008年12月1日月曜日

作文

兄から分厚い封筒が届いた。開けてみると、去年亡くなった母が後生大事に持っていた私と姉の小学校の頃の作文だった。これは私の小学2年の時のもの。本当に一昔前の代物だ。作文は小学校の頃は好きだった。たくさん丸がついているけど、随分甘い評価だなと思う。自分の経験や感情を語るのはよかったのだが、中学になり、映画の感想や見学したものを客観的に書くことになって、好きでなくなったのを覚えている。

(クロベー。
とんちゃんが六年生のときの夏にかわいい小犬をもらってきてくれた。かわいい犬です。まだ目が油色をしていてあるくのにもようようです。ごはんはおこ皿にはんぶんもたべないうちにもうよたよたです。そうしてわたくしがよつんばいになってはしるといっしょうけんめいわたくしのあとをついてきてとてもかわいい犬だった。)

この犬は随分たってから父が病気になったときか、亡くなったときに親が始末した。そのとき、おばあちゃんが私を慰めるために、『またきっと新しい飼い主にもらわれていくんだよ』と言った。私はなんとなく犬の運命が分かっていたので、そんなことを言うおばあちゃんにひどく腹を立てたのを思い出した。そして私も子どもなりに一生懸命生きていたんだなあ、と不思議な気持ちになった。

2008年11月28日金曜日

うれしい!

ギブスがとれました。うれしい。
とれた後、お医者さんが診察。それからフィジオテラピストのところに送られました。
そこで足の運動を教えてもらい、来週から近くの診療所で筋肉を強化する訓練を受けなさい、と言われました。

病院からの帰りにお店に寄りました。いつもの魚屋さんの前でクリスマスツリーを立てていました。
久しぶりだったので、なんか新しいような感じがしました。この魚屋はイェテボリで一番新鮮、という噂があります。サバとニシンを買いました。あしたはサバの煮付けです。

2008年11月24日月曜日

雪です

ふと外を見ると、雪がひらひら(この写真ではあんまり良く見えないけど)。
温度計はマイナス2.4度。こことしてはあまり寒くない。
昨日は東海岸のほうは吹雪だったようです。今朝のニュースでストックホルムの空港は3本ある滑走路が1本しか使えなくなり、キャンセル続出。空港の床で一晩過ごした人がいた、と報道していました。
私の足を襲撃した木の幹もお隣のおじさんのおかげで、すっかりきちんと整理されています。
猫はコタツがなくても丸くなる。いよいよ冬です。

2008年11月21日金曜日

猫のグルッセ(2)

グルッセに予防注射を打ってもらわなければなりません。毎年1回のこの行事は実行するのがなかなか大変です。グルッセは大の獣医さん嫌い。何としてでも行かないですむように考えているらしい。大分前から「もう、秋だねえ。そろそろグルッセを…」なんて会話をしていたのですが、水曜日の2時に獣医さんの時間がもらえました。前に住んでいた所のお医者さんで、ちょっと遠いのですが、とてもよくしてくれるので、1年に1回通っています。
朝起きると、グルッセはまだ居間のソファーの上でぐっすり眠っています。地下の洗濯場の窓が猫穴になっていて、いつでも出入り自由です。朝ごはんが終わってからスヴェンが洗濯場のドアを閉めました。「地下に行く階段のところのドアを閉めたほうがいいよ」と私。地下室は隠れるところがいっぱいあるからです。「大丈夫。地下に行ってトランペットを吹けば慌てて逃げ出すから」「そうね」と安心していました。さて、出かける少し前にスヴェンはサキソフォンを持って地下室に。ところが吹いても出てこないのです。スヴェンも負けないで、「掃除機をかければ絶対に大丈夫」地下室全部を掃除してもやっぱり出てこない。魔法にかけられたみたいでした。2時はどんどん近づくけれど、結局見つけられないで、その日は諦めました。診療所が閉る5時過ぎにひそっと出てきた。やっぱり知っているんだ。
今日はその手はくわないぞと、昨日の夜外から帰ってきたのを確認して、階段のドアを閉めてしまいました。グルッセは「しまった」と思ったのでしょう。そわそわとそこら中走り回っていました。今朝起きていくと、黒い影が寝室に入っていくのが見えた。ところがいよいよとなると、ベッドの下にいないのです!?枕元に置いてある小さな戸棚の下で小さくなっていました。その周りは空気が固まったみたいにひっそりしていました。なるほど、これが魔法なんだな、と思いました。
兎に角大騒ぎで注射を打ってもらいました。よほど疲れたのでしょう。それとももうあと1年は恐くないと知っているのでしょうか。今夜は私のひざの上でぐったりと寝ていました。

2008年11月17日月曜日

少し楽になった。

金曜日からギブスの足も使っていいことになりました。
最初は少しこわごわ、今日は補助器もツエも使わないで歩いています。
すごく楽になりました。
早速、写真家のお店に連れて行ってもらいました(車の運転は未だなので、スヴェンがアッシー君やってくれています)。新しいCDのアーティストの写真を撮ってもらってあったので、130枚の中から24枚選びました。23人の日本人のグループです。ライナーノートに使います。まだまだやらなければならないことがいっぱい。一歩ずつ完成に近づいています。

2008年11月14日金曜日

ちょっと進歩

今日からギブスの足を使ってもいいことになっています。
足が大分痩せた(これはうれしい!)ので、ちょっとこわごわ歩いてみました。
やっぱり杖がないと未だ不安定です。でも、両足で立てるのは楽ですねえ。

2008年11月12日水曜日

東京裁判

11月11日は第一次世界大戦が終わって90年目だそうです。そして60年前のちょうどこの季節に東京裁判で戦犯の判決が下ったそうです。間30年。第二次世界大戦が始まってからも二十数年なのですから、人間は歴史から何も学ばない動物なのかな、と思ってしまいます。 東京裁判
文藝春秋10月号はこれを記念して(?)「新・東京裁判 -60年目の総決算、国家を破滅に導いたのは誰だ - 決断しないリーダー、暴走する組織」という座談会を載せていました。


東京裁判に当たっては、戦争前後も入れた莫大な資料が集められたそうで、それだけでも歴史的価値があるようです。そして、これ等の資料は2006年以来、少しずつ公開されているそうです。


私は昭和史にあまり興味がなかった(学校では全く教わらなかった)のですが、9月11日NYのテロ以来、ちゃんと知らなければだめだ、と思い始めました。


というのは、当時の最大野党、穏健党の党首(今の外相)カール・ビルトがあのテロを真珠湾攻撃と比較したからです(この人は時々おかしなことを言う。最近もグルジアを攻撃したロシアをナチスと比較して、えっと思わされた)。真珠湾には本当に頭にきた。抗議の手紙を書こうかと、本気になって思ったほどです。でも、冷静になってみると、実は私は何も知らないのです。したがって抗議もできなかった、悔しい思い出があります。


それでこの座談会は大変面白かったです。戦争は果たして避けられたのか。勃発する前にどんなチャンスがあったか。陸軍は、海軍は、政府は、メディアは、国民は、天皇自身はなにをしたのか。世界情勢はどうなっていたのか、など。私にとっては、恥ずかしながら、なるほどと思うことがいっぱいでした。


読後感としては、私は戦争は避けられなかったんじゃないかと思いました。当時(今も?)日本は外交があまりにも下手だからです。新しくできたばかりの国家、国際関係での駆け引きの経験にかけている、欧米的論争に慣れていない(何しろ相手は海千山千のチャーチル、ルーズベルト、スターリンなんですから)、国際情勢をあまりにも甘くみている、など、何を取っても経験がなくて、突っ走ってしまう。これでは、無理だったんじゃないかと思いました。


でも、残念ながら、これは今の日本にも当てはまりますね。国内でギャーギャー反対するばかりではどうにもならない事が多いんじゃないでしょうか。例えば憲法9条の問題を知っている外国人がどのくらいいるでしょうか。言うべき時ははっきりと言う。それも外国人に分かる言葉で、冷静に。うーん。やはり今の日本人にも難しいですね。

カウンター

今日からこのブログにもカウンターが付きました。
今13人です。

2008年11月4日火曜日

退屈!

足以外はいたって健康なので、お腹もすくし、どっか出かけたくもなりますが、不便です。
退屈だから、今日は久しぶりに肉じゃがに挑戦しようと思いました。補助器がないと一歩も動けないので、思わぬところで手がかかる。
先ず材料を全部(と思ったのだが)キッチンの机の上に乗せ、ジャガイモ、人参(家はニンジンを入れるのです)の皮をむいて、たまねぎを切って。野菜の皮を捨てるのに、あ、3歩歩かなきゃ。肉を冷蔵庫から出して、あ、また3歩。全部いためる。鉄鍋を出さなきゃ。重いなあ。これどうやってレンジのところまで持ってくの。いためるのに菜ばしがいる。また一歩。
でも作りましたよ。おいしかったけど、ああ、しんど。

2008年11月1日土曜日

シルヴィア女王

ラジオの第一放送では毎週土曜日、午後1時~1時半まで30分に渡って時の人をインタヴューします。今日のゲストはシルヴィア女王でした。女王は子どもの権利侵害問題、特にポルノ、ペドフィール、トラフィキング、難民の子どもの権利などに興味を持っています。時にはかなり突っ込んでの質問に、これもかなりはっきりと答えています。
日本では絶対に考えられない。以下、内容を要約します。(I=インタヴュアー、S=シルヴィア)


I:今日のインタヴュ-のテーマは「世界のそしてスウェーデンの危険にさらされた子ども達」ということなのですが、いつごろからこの仕事をこれ程熱心にされているのですか。

S:1976年の結婚祝いの基金ができてからです。始めは障害児のためのものでした。障害を受けた子ども達が同じような立場の子どもに会うことによって、友達が出来る、将来の希望が持てればという趣旨でした。スポーツを通して、他の仲間がどのように難しい立場を克服してきたかをみて、元気付けられたらということでした。パラリンピックも大切です。基金は今、多くの研究者を助けるようになっています。また本の出版もしました。
このような子ども達は障害児になったことで、友達も失ったりしています。でも、スポーツを通して、仲間が出来、再びアクティブな生活が出来るようになるのは大切なことです。

I:危険な状態にある子ども達のためにスウェーデンがするべきこでは何が一番大切だと思われますか。

S:何が一番大切というのは難しいですが、今日インターネットが果たしている役割はとても大切だと思います。15年ぐらい前、私はインターネットは暗黒の穴だと言いましたけれど、これ程の発展をするとは思わなかったし、いろいろな助けになっています。でもまたインターネットが邪悪な機関でもあることはたしかです。

I:どういう意味ですか。

S:速さと扱いの簡単さです。昔はビデオを撮っても自分で簡単には扱えなかったけれど、今はインターネットに載せて、あっという間に世界中に送ることも出来ます。それによって子どものポルノも簡単に公開できます。

I:今、そのような写真を見ることを禁止する法律の是非が取り沙汰されていますが、どのようにお考えですか。

S:スウェーデンではまだですが、ノルウェーとデンマークでは既に法律になっています。私はスウェーデンも見習うべきだと思います。

I:個人の権利侵害という考えがありますが。

S:子どもの権利のほうが尊敬されるべきです。

I:見るだけで子どもの権利が侵害されるのですか。

S:あなたはそのようなフィルムを見たことがあるのですか。撮影するのに子どもがどんな危険にさらされるのかを。政治家はノルウェーやデンマークを見習うべきだと思います。
 
I:もうすぐ第3回ECPAT(性的侵害に対する子どもの権利を守る会)会議がリオデジャネイロで開かれます。女王陛下はストックホルムで行われた第一回会議に積極的に参加されましたね。それ以来どのような進展があったとお考えですか。

S:96年は当時の首相、イングマー・カールソンのイニシアティブで開かれました。122カ国が参加し、この種の初めての会議でした。この問題について初めてオープンに議論がなされました。この時日本から二人の女性国会議員が参加され、世界最大のポルノグラフィー産業が日本にあることを知り、非常に驚いていました。日本に帰ってからこの二人によって国会で討論され、法律が作られました。日本国家の勇気のある行動だと思います。第二回目の会議は横浜で開かれました。その後あちこちの国で、同じような法律が出来たことは、非常な進展だと思います。

I:上手くいっていないことは何ですか。

S:インターネットをもっと統制できないことです。もちろん多くのことが起こっているのですが。例えば、イェテボリの工業大学、シャルマースの学生が作ったプログラムでネット・クリングというのがあります。これをインストールすると、ポルノのサイトを開けると同時に警察と仕事場のチーフに通知が行くようになっています。
スウェーデンでは毎日5万人もの人ががポルノを見ているのです。それも社会のあらゆる層、医者も教師も両親(父親ですが)も見ている。どうしてこんなことが可能になったのでしょう。

I:どうして可能になったと思われますか。

S:例えば多くの人が自分は関係ないと思うとか、ただの写真じゃないか、大したことない、などと思うのではないでしょうか。ですから、私はこの種の会議で問題が表面に出て、討議され、いろいろな手が打たれることは喜ばしいと思います。

I:メディアがペドフィールのなまえを発表すればいいと言う意見に対してどう思われますか。

S:それは大変複雑な問題です。こういう人たちは子どもに接触のある職業と関係してはいけないのです。こういう人たちは助けてあげるべきです。医学的に、精神的に。

I:このような犯罪を犯す人は、子どもの時に暴行されたりしていると言われています。それに対して同情するべきだと思われますか。

S:この人たちは病気なのです。本当は社会が助けを差し伸べるべきだと思います。

I:FNはスウェーデンも人権侵害が行われていると発表していますが、このことについてどう思われますか。

S:子どもの権利もですが、そのほかにもう一つ大切なことがあります。トラフィキングです。映画「リリー・4・エヴァー」をご覧のことと思いますが、スウェーデンに連れてこられて、売春を強制される女性達。この人たちを助けるのは、警察もとっても大変なことなんです。

I:セックス・ツーリスムに対してどう思いますか。新政府の観光大臣、モード・ウロフソンは入閣2年となるのに、ほとんど何もしていないことに対しては。

S:今日では600の旅行会社が斡旋などしないと言う宣言書にサインしています。そういう意味で進歩はしています。

I:FNの子どもの権利に対する条約をどう思いますか。

S:この条約がもっと知り渡ればいいと思います。子どもが自分の権利を知るということ。その場合、今のスウェーデンで学校でどのように扱っているかを一考する必要があるでしょう。来年はこの条約の20年記念です。その誕生プレゼントとして、このようなことを考えて欲しい。

I:USAがFNのこの条約を批准していないことについて、どう思われますか。

S:USAは署名はしましたが、批准はしていません。この条約では子どもの定義は18歳です。16歳ではありません。私もなぜ批准しないのか疑問に思って、彼等に聞いてみたのですが、ある国会議員は「FNの言うことを聞きたくない。我々は独立の国家なのだから」と言っていました。私の答えは「私の国も独立国です」

I:新しい大統領になったら変わると思われますか。

S:そうだといいと思います。

I:避難民の子ども達、特に移民を拒否されて隠れている家庭の子ども達に対して、どう思われますか。

S:そういう子ども達は大変難しい立場にあると思います。(しばらく沈黙)私自身の考えがありますから、この質問に答えたいのですが、これは政治的な質問なので、次の質問に移ってください。

I:どういう意味で政治的なのですか。

S:これは政治にかかわっている人たちが解決することです。私も考える一個人ですから、自分の意見はあります。でもそれは彼等と直接話し合いたい。ここではこの問題は話し合いたくないのです。

I:最後に、王室は意見を言うことを禁じられていますが、狼に対してでも何でもいいのですが(王様は最近、狼猟に賛成する意見を述べ、アカデミーの会員の一人、著作家に批判された)、王家は口を出さないと言う禁則は強すぎると思われますか。

S:ええ。多分。狼については、主に二つの意見が対立していますが、何も知らない作家が意見を述べるのは…

I:王室はもっと意見を述べられるほうがいいと思われますか。

S:一度子ども達が小さかったとき、学校の成績評価について、親として、と断って意見を述べたことがあります。それでも大議論になって…私たちも考えのある人間です。もちろん政治家のしごとも尊敬しますし、法律も尊敬します。でも非常に個人的な問題、特に子どもに関しては意見を控えるのは難しいと思うこともあります。

I:今日はどうもありがとうございました。

2008年10月29日水曜日

IKEA


テレビでIKEAの創始者、イングヴァー・カンプラードのインタビューを見ました。82歳。かくしゃくたるものです。今でも毎朝6時半から事務所に出てくるそうです。そして夕方6時半まで仕事をしているといっています。
息子が3人、全員IKEAで働いているけれど、跡取りはまだ決めていないそうです。全体を理解して取り仕切るまでにいっていないから。今でも発言権は強く、ついこの間も洋服ダンスのガラスの戸をキャンセルした。個人が取り扱うのには重すぎるという理由で。
IKは1926年生まれ。5~6歳ですでにマッチ、クリスマスカード、種、クリスマスの飾り、万年筆などを売っていた。お父さんが取る魚を半額で分けてもらい、売ったこともある。IKEAは1943年に会社を作ったが、家具の販売は47年から始める。IKEAという名前は自分の名前と出生地のイニシャルをつなげたもの(Ingvar Kamprad, Elmaryd, Agunnaryd) 。始めは他の家具の会社から散々いじめられたそうです。ストックホルムの見本市に入場禁止され、絨毯に包まれて、知っている人にこっそり運び込んでもらったりしました。
そういう理由で先ずデンマークに進出。その後、ポーランドなどの東欧で生産、安い家具で名を馳せる。今では、世界中に150の販売店を持つ。
若いときに右翼の党に入会していたことが、1990年代に発覚。そのことを聞かれて、「ユダヤ人の従業員に手紙を書いて謝った」と言って涙声になる。インタヴューアーが急いで次の質問をしようとすると、さえぎって、「400人のうち398人があなたを支持すると言ってくれたんですよ」と泣き声になった理由を述べていました。ちょっと以外でした。 
また、アルコーリストと言われていた事について。ポーランドで仕事をしていた時、食事ごとに、コップで乾杯して一気に強い酒を飲む。そして空のコップを頭の上に載せなければならない。その後またすぐに、スウェーデンのためにとか、友好のためにとか、IKEAのためにとかいって飲む。始めはおいしいとも思わなかったけど、1-2年たつとおいしいと思うようになって…そこで、医者に相談したら、1年に2回3週間ぐらい禁酒しろ、と言われた。もう40年ぐらいやっているけど、今では年に3回、6週間ぐらいやっている。今年は6月4日から全然飲んでいない。
今後も新しいイングヴァー・カンプラードが生れると思うか、という質問に、もちろん出てくるだろう。でも私の時代は父を手伝って、ジャガイモを掘ったり、木を切ったりしていたので、何をやっても失うものはなかった。今はみんな大きなうちに住み、高いボートを買ったりで、失うものを持っているから、恐ろしくて大きなことが出来なくなっているかもしれない。同時に、いろいろな可能性も昔よりずっと多いから、これからも事業者は出てくるだろうと結んでいました。
とにかくいろいろ言われている人で、個性があって面白かったです。

2008年10月24日金曜日

近況再び

今日、再び病院に行きました。レントゲンを取り直し、結果はOK(骨がずれたりしていなかった)なので、仮のギブスをはずして、本格的なのに取り替えました。
今は技術が進んでいて、とても簡単に出来上がりました。驚いたことにはギブスの色が選べることです。選択は緑、黄色、紫、白、黒の5色。どうせならとんでもない色がいいなあ、と思い、紫にしました。5週間、自由に動けません。4週間目からは足をついて歩いていいそうです。11月28日にギブスをとります。ああ、待ちどおしい。